皆様、こんにちは。
ハンチングで御座います。
お世話になった方々に最後の挨拶を済ます。
夢にまで見たFIREを達成し、会社の正門を出た。
空はどす黒い厚い雲に覆われ雨音が、けたたましくアスファルトを叩く。
だけど僕の心はどこまでも晴れやかだった。
正午丁度に会社を後にし、傘をさして歩く。
会社からアパートまでは10キロほどの道のり。
普段なら歩かない距離なのだけど、この日だけはどこまでも歩いていたい。
そんな気分だった。
僕の目線の先に大きなショッピングモールがみえた。
その途端、自分がすごく空腹だったことに気付く。
店内に入ってホッと一息つくと同時に、やっと自由になれたんだという喜びがこみ上げる。
FIREを達成した記念すべき最初の食事。なにか思い出に残るものを食べたいな。
そんな思いがけない感情がむっくり顔を出す。
ショッピングモールのフードコートを見回す。
丸亀正麺。
リンガーハット。
すき家。
違う。
何かが違う。
僕が求めてるのはそういうのではない。
だが、そうは言ってもここはショッピングモールのフードコート。
特別なお店などあるはずもなかった。
あるはずもないよな。
諦めかけて途方に暮れかけた僕の目があるお店で留まった。
ミスタードーナツ。
その瞬間、12年前の記憶が蘇って来た。
これから12年住むことになるこの街を初めて訪れたあの日の記憶が。
2009年11月。
突然の転勤で生まれ故郷の岩手を離れ、これから12年住むことになる、東海地方の、かの地へ初めてやって来た。
この時の僕は、とても仕事にやりがいを感じていて「新天地で仕事をメキメキとこなし周りを圧倒してやる」と密かに燃えていた。
故郷を新幹線の始発で出立し、東京駅で乗り換え、名古屋からローカル線に揺られて最寄り駅へ辿り着いた時には、時計の針は12時を回っていた。
20分後に社バスが迎えに来る。
あまり時間が無いけどお昼を食べるならこの間しかないと言う。
空腹感を感じていた僕は初めて訪れた街で右も左も分からないまま、駅前のミスタードーナツへ飛び込んだ。
店内はお昼時ということもあって、駅前の閑散とした風景とは裏腹に長い列が出来ていた。
トレーとトングを両手に持ち、今か今かと待っていたのだけど、空腹だった僕の願いは届かなかった。
社バスが来る時間が迫り、手に持った空のトレーとトングを虚しく返却しその場を去った。
それからの12年間の仕事人生は当初抱いていた、高い志は無残にへし折られ、屈辱の泥水でもがく苦々しい日々。
そんな毎日だった。
そして僕は今日FIREを達成した。
その帰り道。
高価なものを食べるより。
ミスタードーナツというのも悪くない気がした。
あの日、食べれなかったドーナツを。
トレーとトングを持って列に並んだ。
あの日の12年前の僕と同じように。
社バスはもう来ない。
時間に追われる人生は今日で終わったのだから。
ドーナツを頬張る。
かの地での12年間の記憶を思い出しながら。
苦い僕の記憶。
その苦い記憶をドーナツの甘さが少しづつ溶かしてくれる。
どこまでも優しい甘さがそこにはあった。